「申し訳ございません、神子殿。紫姫の館への使いの者が間に合いませんでした」
「えっ、どういうことですか?」
「実は、つい先ほど、和仁様が熱を出されて……」

 少し離れたところから、時朝と花梨の会話が聞こえてきて、和仁は、いつもの来客を喜ぶよりも落胆した。
 がたがたと震えるような寒気が先刻までしていて、今度は寝床の中で汗をかくようになった。時おり出す高熱は、幼少から身体の弱かった和仁にはすでに慣れたことだが、その苦しみはいつも変わらない。錐で脳髄を突かれているような強い頭痛がし、こちらにすぐさま走り寄ってきそうな花梨をどうにかして遠ざけるために起き上がりたいのだが、熱のせいで関節のあちこちが痛み、ままならなかった。
 時朝も同じく、花梨を主に近づけさせないために交渉していたらしい、が、あろうことか彼女は和仁の御帳まで来てしまった。
 何をしているのだ時朝……と文句の一つでも言ってやりたいのに、喋ることも億劫で、代わりに深い溜息をついた。

「和仁さん、大丈夫?」

 いつも思うが、少女が「大丈夫?」と聞いてくるのは、彼女がいた世界の社交辞令なのだろうか。大抵、大丈夫でないときに、わざわざそう尋ねてくる。無意味だとしか思えないし、どちらかというと場の状況を読んでほしいのだが。
 無反応で天井を見つめたままでいると、花梨はおずおずと和仁の枕元に座し、つらそう……と言いながら悲痛な顔をした。

「高い熱が出ているみたいですね。インフルエンザかな……あ、でも、こっちの世界には、まだないのかしら?」

 何やらよく分からないことを呟き、少し失礼しますねと、和仁の額に片手をあてた。突然の行為に驚いたものの、その態度を表に出す余裕は、今の和仁にはなかった。
 熱を測っているのかと思ったが、そうではないらしい。花梨は神妙な面持ちで自分の手を見て、沈黙していた。神子の力の発現でもするのだろうか。和仁は、抵抗しなかった。単純に、彼女の手を払いのける気力がなかったからだ。
 少しして、花梨は額から静かに手を退けた。

「穢れではないみたいです、大丈夫」

 とんでもない台詞を聞き、和仁は悲鳴を上げた。

「な、にを、して、いた」

 喉の痛みで声が掠れてしまっている。花梨は薄く苦笑し、このくらい平気ですよと、落ち着いた様子で言った。

「もし呪詛を受けていたりしたなら、私がそれを浄化してあげられるかもしれないと思って」
「馬鹿な真似はよせ」

 神子の神聖な気が乱されることを最も厭う和仁である。花梨の、年下だとは思えないほど大人びた優しさは尊敬に値するが、彼女が勝手に一人で苦しみを選び取ることは別問題なのだ。
 しっ、しっ、と手で払う真似を寝具の間から覗かせ、和仁は唸った。

「帰れ、神子」
「すぐに帰ります。これは、私にも治せないもの。和仁さん、風邪を引いているだけだわ。お薬の方が効きます」

 和仁さんが眠った頃に出ていきますねという少女に、和仁は呆れて脱力した。

「お前まで邪気をもらう。早く去れ……」
「邪気?」

 意味が分からなかったようで、無邪気に首をかしげている。
 別の世界から来たという花梨は、しばしば和仁や周囲の者の言葉に対して、こういった仕草を見せることがあった。生まれたころから当然であり疑ったこともない和仁たちの言葉や行為の意味が、花梨には異質に感じられるらしい。前々から怪訝に感じていたものの、彼女は本気で分かっていないようなので、訊き返されたときには、きちんと回答してやるようにしていた。

「身体が邪気を引き込むから、風邪をひくというのだ」
「……ああ!」
「お前の言う穢れとは違うのかもしれぬが、私が悪い気に満ちているのは確かだ。早く、帰れ……」

 花梨は、少し考え込んだ様子をみせて、そのうち、ふふっと笑った。なぜ笑われるのか分からず、言うことをきかない少女に苛立ちを感じながら、和仁は問うた。

「なぜ、笑う」
「あ……ごめんなさい。私の世界では、そんなふうに思わないから。風邪をひくのは、そうだな……目に見えない空気中の生き物が、身体の中で暴れるから。そういうふうに考えられているんです」

 説明に、和仁はぞっとした。

「目に見えぬ生き物だと? その方が恐ろしかろう」
「うーん、そうかな。そうかもしれませんね。
 私、京に来て、みんなが気だとか呪いだとか、そういうものがいろんな事柄の原因になっていると考えていることに、少し驚いたんです。私の世界では、そういうふうに思わない……もう、思ってないから。だから、和仁さんが風邪をひいているのも、ただ単純に身体の具合が悪くなっているだけで、邪気があるなんて私は全く感じません。風邪をひいたときには、医者に診せに行きます。処方された薬を飲めば、数日で回復する。ただ、それだけなんです」

 不思議なことを言う。和仁は(いいかげん相槌を打つのがつらいので)反応せず、天井をぼんやりと見つめたまま、考えた。花梨の世界というのは、一体どんな人間たちが住む場所なのだろう。話を聞いている限り、文明の水準すら異なるようだ。ひとりでに動き出すものや金属的なものが多いようだし、物事に対する考え方も驚くほど違う。歌も詠めず、舞も楽器もできない花梨は、てっきり貧しい庶民の出なのかと思ったが、彼女の世界には、なんと官位すらないのだという。その話を聞いたとき、和仁は羨望した。誰もが平等でいる世界ならば、自分は、きっと東宮になりたいだの権威がほしいだの考えずに済んでいただろうに。
 花梨は、とても健全で、朗らかだ。彼女の住む世界は、そんな人間たちで溢れているのだろう。まるで美しい浄土のようだ。

「ごめんなさい、もう休みたいですよね。私、行きます」

 和仁は、何も言わなかった。少し寂し気に笑って言う花梨に、自分も同じように寂しいと思ってしまったのが嫌だった。
 花梨は、和仁に「手を貸してください」と要求した。和仁は抗うことはせず、掛け物の間から片手を出し、差し出した。花梨は微笑を浮かべたまま、和仁の手を両手でそっと握った。彼女の手は冷たくて気持ちがよかった。
 花梨は、祈るように目を閉じて、和仁さんの風邪がよくなりますように、と囁いた。そのとき、かつて今のように高熱を出した時に、叔母が優しく手を握っていた景色と重なって、和仁は少し泣きそうになった。それもそうだ、彼女は叔母ではなく実母だったのだから、病床の子どもを心配し、労わるのは当然だろう。だが、その慈しみや親切は、官位という泥沼の中から生まれたものだった。悲しい。悲しくて仕方がない。けれど今、この少女は、権威などというものとは無縁な想いで、真に清らかな祈りを和仁のために捧げてくれている。嬉しい。嬉しくて仕方がない。自分のような悲しく孤独な人間を少しでも愛してくれるというのなら、自分もまた己の内に眠る愛をこの女性に捧げたいと想った。愛したいと、今、想った。たとえ、その資格がないと言われたとしても。
 強く、願った。